ルール(対局規定)の変遷史
連珠という競技の中でいつ「三々」や「四々」がいけなくなったのか…。そんな疑問に少しでもお答えしたくて、表にまとめて見ました。
文責:東海九朗
○…勝ち、×…負け
| 時代 | 先手 | 後手 | 備考 | 参考文献 | |||||
| 三々 | 四々 | 四三々 | 長連 | 三々 | 四々 | 長連 | |||
| 江戸時代 (安政・万年・文久の頃) |
○ | ○ | ○ | 無効※ | ○ | ○ | 無効※ | 棒勝ち(※見落としによる4連勝ち)を禁じ、 両勝ち(※四三など)をもって勝ちとする。 |
格伍新譜などから類推 |
| (相手が)先に五連を作った直後に(自分が)長連を打てば引き分け(=和俗)になる。 | |||||||||
| 明治10〜15年頃 | ▲ | ○ | ○ | 無効 | ▲ | ○ | 無効 | 三々蔑視の風潮が起こる | |
| 明治20年頃 | 忌避 | ○ | ○ | 無効 | 忌避 | ○ | 無効 | 三々を忌避する。 | |
| 明治24年〜35年 | × | ○ | ○ | 無効 | × | ○ | 無効 | 先手、後手共に三々禁 | |
| 明治36年 | × | ○ | ○ | 無効 | ○ | ○ | 無効 | 後手の三々を許し、 先手のみ三々を禁ず |
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| 明治45年 | × | ○ | ○ | 無効 | ○ | ○ | 無効 | 明治45年1月3日・東京麻布(高臥山房)に於いて、高山互楽、朝田(又輔)、三上雄石、磐井彦太郎らが合議し「三々禁絶」を可決。続いて「後手長連勝ち」も協議され、以後、「先手長連負け」も付け加えられた。「聯珠新報 第99号」より。 | |
| 先手の三々を負けとする | |||||||||
| × | ○ | ○ | 無効 | ○ | ○ | ○ | 後手の長連を勝ちとする | ||
| 大正6年 | × | ○ | ○ | × | ○ | ○ | ○ | 先手の長連を負けとする | 以上、聯珠随筆より |
| 大正7年1月 | × | ○ | × | × | ○ | ○ | ○ | 東京聯珠社が機関紙「聯珠新報 第98号(大正7年1月発行)」誌上にて「黒の五聯に達せざる以前に如何なる形にても三々を生じたる時は負と定む。右大正七年一月より実行す」と宣言(広告)。 また、第99号誌上では検勝案(※現在の詰め連珠)に於いて 「故障なき四追いは数に在らず」との宣言も広告された。 |
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| 大正末期〜昭和初期にかけて | 〃 | 五珠二ヶ所打ちが提唱され、導入され始める。(正式な導入年月日は調査中) | 1) | ||||||
| 昭和11年12月 | × | × | × | × | ○ | ○ | ○ | 第三世名人・木楽山が『日本聯珠協会』を設立し、15道盤・黒四々禁を発表 | |
| 昭和15年3月 | × | × | × | × | ○ | ○ | ○ | 五三々、五長連を勝ちとす | |
| 昭和41年9月 | × | × | × | × | ○ | ○ | ○ | 『日本聯珠連盟』『新日本連珠社』『日本聯珠協会』などが合併してルールを統一。『社団法人日本連珠社』が設立。 | |
| 以下、変更無し | |||||||||
| 昭和48年8月 | 〃 | 三好丈夫七段が三珠交替打ちを提案 | |||||||
| 昭和62年11月 | 〃 | 奈良秀樹七段が三珠交代打ちの早期実現を提言 | |||||||
| 昭和63年4月 | 〃 | 『珠型交替五珠二ヶ所打ち』を正式採用 | |||||||
| 昭和63年8月 | 〃 | RIF設立。ルールは日本連珠社に準拠 | |||||||
| 平成14年8月 | 〃 | 山口真琴名人が『題数指定打ち』を考案、今後の協議事案に。 | |||||||
※いわゆる復活三々禁の論争に付いては省略した。
※訂正:四三々がすべての年代に亘って○になっていました。お詫びして訂正申し上げます。
1907年に四三々禁で打たれていた事が資料によって確認されました。引き続き追跡調査しております。
※参考文献
1)連珠世界増刊号 2003 50(4) 増刊号 「古書を通じてのルール変遷史」